宗光寺と天海大僧正

宗光寺は、嘉祥元年(八四八)関東の比叡山として、慈覚大師(円仁)によって草創されました。 そののち建久四年(一一九〇)長沼宗政公が当地に長沼城を構えるにあたり、主君源頼朝公の本願 によって、鎌倉大御堂をうつし新御堂を建立することとなりました。

弘安九年( 三八六) には長沼七代城主宗光公が長沼氏の菩提寺として宗光寺を建立し、比叡山より盛海法印を迎え中興しています。さらに伏見天皇より「新御堂山円頓止観院宗光寺」の勅額を賜り、以来中世においては、川越の喜多院、埼玉県児玉郡の金鑽寺と、もに関東の三談林として、関東天台宗寺院の中心中心的存在でした。そして天台教学を宣揚する椙生流の道場となり、多くの学僧を輩出することとなりました。

しかし、天正十九年(一五九一)十八世亮弁僧正の時、下妻城主多賀谷重経によって、宗光寺の堂塔伽藍は、すべて破壊没収されてしまいました。ここに及んで、法脈は隣地の久下田に移され、時の下館城主水谷蟠龍の外護のもと新宗光寺として出直すこととなります。

亮弁僧正等は、旧地長沼に宗光寺の復興を 試みましたが力およびませんでした。そこで旧宗光寺談林を復興できる人物は、天海法印をおいて他にはないとして入山を懇請しました。

慶長八年(一六O三)久下田新宗光寺に入山した天海法印は、翌年、旧地長沼への再興をはかり、宗光寺二十世の法統を継ぎました。 その際、法弟弁海法印への返章で、宗光寺について次のように述べています。 

「謹答当山は帝王の御願寺、源頼朝の再興になり、東関諸精舎の冠たり。善知識(高徳 の僧)でなければ住することを得ない。まさ しくそれは、獅子の窟中に他の獣が住めない のと同理である。 」

天海法印は、宗光寺に入山してから慶長十五年(一六一〇)比叡山で法華大会の探題となり、南光坊を名のるまで公文書には好んで「宗光寺天海」と署名しており、同寺の住持であることを誇りとしていたようです。

 宗光寺は、長沼談所として中世より近世に至るまで、僧侶の教育機関である談林でした。

かつまた僧正寺の格式を有し、僧正になる名跡で、天海法印も慶長十四年、宗光寺で権僧正に昇補していま す。

天海法印の尽力 によって復興なった宗光寺は、末門三百八ケ寺を有し、顕教は恵心相生流、密権は三味流の道場として、近世においてなお一層の光彩をはなつこととなりました。

明治の祝融以来の仮本堂も先年再建立され、本年天海大僧正の三百五十年御遠忌にあたり、新客殿の落慶法要が執り行なわれます。

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